12月10日-14日 編集手帳

12月10日 編集手帳

2015年12月10日3時0分

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いまはあまり詠まれることのない春の季語に「絵(え)踏(ぶみ)」がある。江戸の昔、キリシタン信者でない証拠に、奉行所で聖母マリアやキリストの絵像を踏ませた踏み絵のことである◆松(まつ)瀬(せ)青々(せいせい)の句に、〈怖(おそ)ろしきことをはじめし絵踏かな〉とある。明治生まれで昭和に没した俳人だから、歴史に思いをめぐらせての作にちがいない。こちらは「怖ろしきことを言いはじめしお人かな」である。イスラム教徒かどうかを見分けるために、何を踏ませるつもりだろう◆新たな公約だという。「イスラム教徒の米国への入国を全面的かつ完全に禁止する」。米国の大統領選挙で共和*党**指名候補争いのトップを走る不動産王ドナルド・トランプ氏(69)である◆罪のない、善良なイスラム教徒まで敵に回してどうする。宗教間の憎悪を煽(あお)るイスラム過激派組織「イスラム国」が喜ぶだけだろう。その人の見識を疑う◆一休禅師の作と伝わる歌がある。〈分け登る麓の道は多けれど同じ高嶺(たかね)の月を見るかな〉。人は皆、心の平安という同じ「月」を仰ぐために、信仰という一つの「山」を登っている。イスラム教徒もキリスト教徒もない。

12月11日 編集手帳

2015年12月11日3時0分

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東京オリンピックの開会式を、野坂昭如さんは神戸市の薄汚れた飲み屋のテレビで見た。都内の自宅から“家出”した身である◆当時34歳。半年前に長女が生まれた。あどけない長女の寝顔を見ていると、終戦直後に栄養失調で死んでいった妹の面影が脳裏にちらつき、仕事が手につかない。ノイローゼのようになって家出したと、のちに語っている。戦後の復興を祝う世紀の祭典もその人の目には、どこか信用ならぬ虚像と映ったらしい◆〈指切って血イ飲ましたらどないや、いや指一本くらいのうてもかまへん、指の肉食べさしたろか…〉◆やせ衰えた妹の寝顔を見つめて、少年は自問した。直木賞を受賞した『火垂るの墓』の一節である。照れ屋のご本人は「賞を意識して書いた」「大嘘(おおうそ)の小説」(文芸春秋『文壇』)とワルぶっておられるが、いまも読む人の胸を揺さぶってやまない。野坂さんが85歳で亡くなった◆受賞したとき、旧友から揮毫(きごう)を頼まれた。野坂さんは書いた。〈我故郷在焼土〉。我が故郷は焼土に在(あ)り。酔っ払っていても、歌い踊っていても、死ぬまで心は故郷を離れなかった人である。

12月12日 編集手帳

2015年12月12日3時0分

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落語に出てくる人物はツイている。富くじに当たり、財布を拾い、ほんの偶然から大金を手に入れる。『富久』や『芝浜』がそうである◆立川談春さんは著書『赤めだか』(扶桑社刊)に書いている。〈改心して、努力して、必死に懸命に生きた結果、つかんだささやかな幸せ、なんていう話は、ただの一つもない〉と。落語は修身の副読本には向かない◆昭和の名人から現役まで39人の名演を計100枚のCDに収めた『NHK落語名人選一〇〇』が売り出されたと、文化面の記事にあった。林家三平『源平盛衰記』など、初めてCD化された音源も17演目あるという◆古典落語は冬の噺(はなし)に名作が多い。先ほど挙げた『富久』や『芝浜』は代表格だろう。寄席の木戸をくぐるに越したことはないが、かなわぬ人にはCDやDVDがある。口演を活字に起こした本で楽しむ手もある。落語で季節感を味わう年の瀬もいい◆現実には、宝くじは当たらず、財布も拾わない。絵空事だとは分かっている。〈いつはりもいたはりのうち水中花〉(鷹羽狩行)。つらい真実よりも優しい嘘(うそ)が慰めになる。冬にはそんな夜もある。

12月13日 編集手帳

2015年12月13日3時0分

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ペルシャ兵の頭の骨は小石で叩(たた)くと砕けるが、エジプト兵の骨は硬い。古代ギリシャの歴史家、ヘロドトスが両軍の古戦場で気づいたという◆土地の人に理由を尋ねると、「エジプト人は日光の下で帽子をかぶらないから頭蓋骨が頑丈」云々(うんぬん)と答えた。そんな挿話が杉晴夫著『栄養学を拓(ひら)いた巨人たち』(講談社)に出てくる◆骨の発育不良の「くる病」はビタミンDが不足すると起きる。その合成が紫外線の働きで進むことを“歴史の父”が知っていたら、さもありなんと思ったかもしれない。病原菌の見つからない病の探究から、逆に体内に取り込まないと健康を保てない物質が次々と発見されるのは20世紀前半である。物質はビタミンと総称された◆脚気(かっけ)を防ぐB1は、農芸化学者の鈴木梅太郎が抽出に成功した。学会で発表したのが1910年の12月13日だったから、きょうは「ビタミンの日」なのだそうな◆ビタミンの恩恵は計り知れないが、最近は過剰摂取も問題視される。病気や健康について我々が知っていることは、たぶんそう多くはない。未来の人類が現代人の骨を見たら、どう解釈するのだろうか。